家族会の子どもたち、家族の生の声をお伝えします!


昨年、兄弟の病名がMECP2重複症候群であると分かりました。 病名が付くのに何十年もかかりました。長男は今年32歳、次男は今年20歳になります。 病気が分かるまで、長い長い道のりを手探り状態で山あり谷ありの中なんとか乗り越えてきました。長い道のりの間、子供達にいろいろな変化がありました。 兄は寝たきりとなり感染症と痙攣発作で入退院を繰り返し、弟は歩行できなくなり最近体調を崩すことが少し増えてきています。 対処療法しかなくリスクと背中合わせの子供達に、このままどうなっていくのか不安で何度心が折れそうになったことか! 病名が分かりPCで同じ病気の子を持つママのブログを見つけ安堵感と嬉しさの思いで返信したことがきっかけで今の家族会のメンバーと知り合うことができました。 子供達の年齢は違えど、同じ悩みを持つ家族と出逢えた事で、一つの光を見つけました。 私達も子供達も、まだまだ頑張ろぅーって‼︎ 頑張れるんだと思える希望と勇気をもらった家族会のメンバーと共にMECP2重複症候群の未来のために一歩一歩前進していきたいと思います。


よく笑う子でした。
とてもいたずらが大好きで部屋中を荒らしまわってはにこにこしていました。
食いしん坊で、弟のお皿からこっそりつまみ食いしていたこともありました。
学校の体育館におろしてやると、水に放した魚のごとくバニーホッピングであっという間にいなくなってしまいます。そんな彼を追いかけるのがとても楽しくて、障害があっても元気でいてくれる事に感謝する毎日でした。
てんかん発作を発症するまでは。
発作の始まりはごく小さなものでした。学校の給食の時間、首が一瞬カクンと落ちるんです、
と担任からの報告。それは次第に増え、家でも見られるようになり初めての脳波を取りました。
てんかんと診断されたのは小学校三年の頃。
それから様々な薬を処方されては、様々な副作用に苦しめれ、発作はごく小さなものから、多様な変化を遂げていきました。
難治性てんかんとの闘いの始まりです。
発作の度にきっと彼の神経はダメージを受けていくのでしょう。
同時に苦しむ姿を見守るしかできない家族の心も、発作の数だけ傷ついていきました。
何もできなくていいから、苦しませたくない、少しでも笑顔をみせてほしい。
そのささやかな願いを支えにこの数年は必死に寄り添ってきた気がします。
息子は14歳、中学2年になりました。今年に入ってから急速に退行し、現在は座位をとる事も困難です。
食事がとれなくなったことも多くなり、胃瘻を増設しました。
てんかんについては様々な治療法を検討しながら現在はケトン食治療にトライしています。多い日で日に7~8回あった強直発作、大発作が2~3回にまで減少、波はありますが、期待が持てる効果が出ています。
出来なくなった事を嘆くのではなく、出来る事をすこしずつ。
QOLの向上=社会参加、残存機能の維持、肺炎予防などを目標に遺伝子治療の可能性、新薬への希望を抱きながら近い将来MECP2重複症候群が根治できる日を目指して家族会の皆さんと共に闘っていこうと思います。

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1年後・・
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4月で支援学校の中学3年生。
いよいよ高等部が迫ってくると、支援学校生活も後4年。その後の進路を意識しないわけにはいかない時期が近づいてきました。
体調も発作も一進一退。
ですが、昨年の今頃に比べれば、劇的に暮らしやすくなった気がします。
胃ろうからの経管栄養で、発作や肺炎であってもしっかり栄養、水分が自宅でも補給できるようになったことで回復も早くなり、感染症の罹患数自体も減った様に感じます。
6月から始めたケトン食治療の効果か、1日に何度も襲ってきた大発作は、気づけば一週間に1~2回と大幅に減っていました。
体の機能も、昨年大幅に退行し、このままだと首を支えることもできなくなるだろうと、もしもに備えた気管切開の説明まで受けていましたが、冬頃から持ち直し、単座位をとれるまで復活、笑顔も復活。
摂食も持ち直しています。ケトン食開始頃は特殊ミルクの注入と経口食の併用、夏の終わり頃から経口が進まなくなり完全注入、嚥下機能の退行かと思われましたが、冬が始まる頃には食欲が戻りました。
秋にかかった溶連菌感染がきっかけで好転した様に思えるのですが、医学的な根拠も何もないそうです。
ともあれ、一度はあきらめた笑顔が戻ってくれたことは何にもかえがたい喜びです。
発作はなくなったわけではなく、今はミオクロニー様の発作が散見、身体機能もできたりできなかったりの毎日です。
とにかくいいときも悪いときも淡々と生活を刻むこと、できるときにできることを少しずつ、病に振り回されることなく1日1日を大切に過ごすことが今の目標です。


我が家は長男、次男がMECP2重複症候群疾患者です。
長男は運動面、知的共発達が緩く10ヶ月になっても1人でおすわりが出来ませんでした。おもちゃを口に入れたり手を見て遊ぶとかメリーを見て楽しむとかもまったくしなかったです。しばらくは保健師さんの所に相談に通いながら様子を見ていましたが1歳半健診を目前に急に周りとの違いに不安になり専門的に見てもらえる所を紹介してもらい通い始めることになりました。
訓練を受けながら個別保育や集団保育も受け、独歩が出来るようになったのは3歳頃。その頃の診断名は『自閉症』でした。目が合わない、おもちゃをクルクル回す、読んでも振り向かないなどが理由でした。
私はどうしても自閉症とは思えない疑問を持ちながら関わり学校に上がるのをきっかけに専門の病院の門を叩くことにしました。やはり自閉症ではありません。といわれ1年かけて色んな検査をしました。
これといって当てはまる物がなく先生たちも『?』でした。1年ほど経った頃、やっと『MECP2重複症候群』だと診断がつきました。染色体の検査(FISH法)で判明しました。自閉症ではないと疑ってから1年、胸にストンと落ちるものを感じました。同時にホッとしたのを覚えています。
診断がついたけどその頃、同じ病院にも同疾患者は居なくネットで検索しても何もヒットしない希少な疾患でした。誰にも相談できず、読み漁る物すらない孤独なものでした。ただ今やること、出来ることを毎日こなしてきた感じでした。
今の所てんかん発作は起きておらず、特別支援学校中学部1年生で毎日スクールバスで通っています。
次男においては、長男が診断を受けた時すでにお腹の中にいました。そして出産(帝王切開)が2週間後に控えた状態でした。お腹の子が男の子なら半分の確率で遺伝します…そうドクターに言われたのを今でもハッキリ覚えています。泣く暇はなかったです。
でも、産まれてから育てていく間に不安な事は増え、10ヶ月の時に長男の時にお世話になった先生に相談に行きました。やはり、訓練は受けなさいといわれ早くから療育に通い始めました。そのお陰か独歩は1歳半で知的も遅れてはいますが理解が早いです。やれることが長男より多いです。てんかん発作は次男もまだ発症しておりません。
2人とも言葉はもちません。表情、声のトーン、クレーン、指差し、少しのサインでやりとりしています。
2人ともがてんかん発作を発症しておりませんがいつ来るのか予知できないものへの不安は大きく、とんでもなく怖いです。
そして、我が家に2人もの障害児が産まれた意味や、私たちの役割が少しずつ見えてきているように感じます。

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1年後・・
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13歳 中学1年生の息子。
小学1年生になる年に確定診断を受けました。
運動発達に加えて知的発達もゆるく独歩できたのは3歳でした。身体障がい者手帳3級、療育手帳A1です。
有意語は未だになし。
意思を伝える方法はクレーンや指差し程度。
あとはこちらが声のトーンや表情で読み取るくらいです。
食事は普通食で自助具を使えば何とか食べれていますが、こぼすことが多く自宅では全介助です。
お風呂も全介助。
湯船に入ったり出たりは一人で出来ます。
着替えも全介助。
排泄はオムツ。定時排泄でタイミングが合えばトイレで出来ます。
自分から尿意や便意を教えることはありません。
簡単な指示は入りますが完ぺきではありません。
今、カードを使えば意思表示が出来るかもと言われ検討中です。
昨年夏より睡眠時(夜中3時頃)に発作が出るようになりました。
多くて月2回なので今は様子見の段階です。
このまま回数も増えず、時間帯も変わらないでいって欲しいと願うばかりです。


少し未熟児だったものの元気に産まれてきました。
小さくて本当に可愛い。このままずっと赤ちゃんだったらいいのに。そんな風に思うほどに。
息子は泣き声も小さくミルクの飲みも悪く発達も遅い。
そして何度も肺炎で入退院を繰り返しながらも、生後6ヶ月から普通の保育園に入園しました。
保育園の先生から見ても私自身から見てもやはり発達に不安があったので、専門の病院で受診してみて発達障がいが分かりました。
1歳頃からPT、OT、心理の訓練を始めました。コツコツと訓練を続けていくうちに出来る事もたくさん増え、そのまま普通の保育園に通っていた息子は健常児とともに過ごし刺激を受けながら、卒園する頃には自分で歩けるように成長していきました。言葉は出ないものの、視線や仕草でコミュニケーションもとっていました。
卒園後は特別支援学校に入学し、学校の廊下を友達とたくさん歩きながら楽しく過ごしていました。
そして2年生になった夏。夏風邪をこじらせて肺炎で入院をしていました。早朝に主治医から電話があり高熱の後、硬直痙攣を起こし意識が戻らないと連絡がありました。それがてんかん発作の始まりでした。意識は2時間後くらいに戻り肺炎も良くなり退院をしたんですが、家に帰ってから食事中何度も頭がカクンと下に落ちる。一瞬意識を失うような形でカクンと。スグに脳波をとってもらうと以前撮った脳波とは全く違う、てんかん発作を発症していました。
てんかんは薬で簡単に調整出来ると私は思っていたのでそんなに落ち込まずに少しづつ薬の調整に入りました。が、全く薬で調整出来ず発作は多くなるばかり。バタンと倒れて怪我をしてしまうので立つ事も歩く事も減り、どんどん足の筋肉はなくなり今はもう立つ事も歩く事も出来なくなりました。今まで出来ていた事がてんかん発作により、出来なくなってしまいました。
それから諦めずに薬の調整をしていた矢先、主治医から急に「息子さんとソックリな顔のお子さんがいてそのお子さんの疾患とよく症状も似ているからもしかしたら検査で病名が分かるかもしれない」と…
10歳になる息子はただの発達障がいで、もう今更何かの検査をして病名を探そうなんて諦めすぎて考えてもいなかった私は衝撃を受けました。
次世代シーケンス解析という特別な遺伝子解析検査により今回MECP2重複症候群という病気だった事がわかりました。突然の事すぎて頭が真っ白になりながらもネットで調べて調べて…
そうしたら同じ疾患のお子さんのブログを見つけコンタクトを取り、この家族会までたどり着く事が出来ました。MECP2重複症候群だと分かったばかりで知識も少なく全てがこれからですが、家族会として協力し合いながら息子の為、これから増えていくであろう仲間たちの為に今出来る事を頑張っていきたい。そしていつかこんな辛い思いをする子供、家族がいなくなるように。
身体はもう大きいけれどずっと赤ちゃんのように可愛い息子の為に母は頑張るよ。


1歳の時発作が出始めた時はミオクローヌスと言われて、合う薬を探しましたが、どれもイマイチ。ほぼ一日中ピクピク、どれが不随なのかよくわからない状態でした。
3歳の時は食べる事で発作を誘発、食事ができなくなり経管栄養になってしまいました。笑顔も泣き顔も消えてしまいました。
5歳くらいのときのてんかんの検査でミオクローヌスではないと言われて、スパズム、シリーズ、強直に変化。
またゼロスタートで薬を探る日々でした。
トリクロやセニランは効かず、とにかく発作が落ち着けと祈る毎日。
シリーズになると30分以上続くのは普通で毎日ダイアップの日もありました。
9歳の時にケトン療法をやったところあっていたようで随分発作が減りましたが元素栄養などバランスが崩れてきたので10歳で中止にしました。
やはり薬で発作が止まればと願うところです。
以前は、発作中は、泣くことは無かったですが最近発作中にめちゃくちゃ泣くことがあります。
見ていると大変つらいです。
なんとか合う薬が見つかってほしいものです。


現在7歳小学1年生の息子。
お腹にいたときから小さめと言われて高度医療を受けられる病院で産まれた息子。
産まれた息子はとても小さくて、でもしっかり生きている。暖かくて愛おしくて、この子を全力で守りたいと思いました。
発達もゆっくりで何かこの子には生まれもった障がいがあるのだろうとどこかで確信していました。 感染症に弱く、かかるとすぐに重症化し肺炎を起こし入院の日々… どうしてこの子はこんなに弱いんだろう。
小さな頃から繰り返す感染症と肺炎に悩まされ、入退院の繰り返し。
すぐに感染症をもらってしまうので、息子に必要な通院やリハビリに行くことすらままならず、外にでることが恐怖となっていました。

3歳でてんかんを発症し、無知だった私は薬を飲めば治るものだと思っていましたが治るどころかどんどん酷くなる一方な上、 薬の量も種類もどんどん増えていきました。それでも発作は全く止まりませんでした。 なんで?どうして止まらないの?1年後にスパズムを合併してからは急激に酷くなり、何の前触れもなく頭からストンと瞬時に床に落ちていき、顔面にアザができるようになりました。
やがてできていたことが少しずつ出来なくなり、あんなに活発に私の後ろを追いかけてきた息子が、起き上がることすらままならなくなりました。
そして薬の副作用で1日の3分の2は寝て過ごすようになりました。

そんな時、以前受けていたCGHアレイ検査の結果を医師から告げられました。 『MECP2重複症候群』 という診断名でした。感染症に弱くて、発作が止まらない理由がようやく分かりました。
医師に何度相談しても「この病気のてんかんは難治で薬が効かないから仕方ない」と言われるばかり。ただ増えていく薬、でも止まらない発作。副作用で苦しむ息子をただ見守ることしかできずに毎日毎日朝が来ることが苦痛でした。また息子が苦しむ姿をただ見ていなければならないのか。いっそこのまま夜が明けなければいいのに。
私自身も精神的に極限の状態に追い込まれ、外にでることも誰かと会話することすら苦痛になって家に息子と2人閉じこもっていることしかできませんでした。

セカンドした病院で受けた外科手術をきっかけにあんなに酷かった発作がパタリと止まり、息子に笑顔が戻りました。出来なくなっていたことも少しずつ取り戻すことが出来ました。
現在再発してしまった発作をなんとか抑制すべく、新しい治療に挑戦しています。
普通に生活したい、ただそれだけなのにそれすらも奪っていく感染症にてんかん発作。

息子と同じように苦しむ子が、それを見守ることしかできない同じ想いをしている家族が、この世界のどこかにいるかと思うと居た堪れない気持ちになります。
日本では難病指定にすらされていない希少疾患。
けれどネットで検索してもほとんど情報が得られず同疾患の子さえ見つからない、患者会の存在すらない。
不安で孤独なものでした。
見つからないのなら誰かに探して貰おうと思い、はじめたブログが今の皆さんと出会うきっかけになり、ようやく繋がれた同疾患家族の方々。 それから患者家族のそれぞれの強い想いがこうして患者会というカタチとなり発足しました。  たくさんの大変な症状を抱えるこの疾患の子たちですが今現在、難病指定されていないのが現状です。まずは疾患名の認知度をあげる、難病指定及びゲノム医療に組み込まれること、治療法の確立を目指して患者会メンバー一団となって動き出しています。
何かを動かすために必要なもの...
それはひとの強い想いだと思います。その想いが集まれば何かを変えることが出来ると信じています。
私は同じ疾患の子をもつ家族と繋がることが出来て心底救われました。仲間がいることはとても励みになり、勇気となります。
決して1人で戦っているのではありません。

ここでは同疾患家族で情報や悩みなどを共有しあい、プライバシーはしっかりと守り、誰もが安心して入会できるような場を作りたいと思っております。
積極的に活動できないけど、情報は知りたいという方、ネットで情報公開されるのはチョット…という方、それぞれの考え方があると思います。
それでいいのです。
患者ご家族の情報、繋がりが私たちにとって、とてもかけがえのないものなのです。

何もしなければ何も変わりません。声を上げなければ誰にも聞こえません。まずこの疾患を世間に知ってもらうことから、今できることを少しずつ、繋がれた仲間と共に訴えかけていこうと思います。いつ日か、同疾患の子供達とその家族が穏やかに生活できる日が訪れますように。


6歳の男の子です。
3人兄姉の末っ子です。
兄もMECP2重複症候群患者です。
この子を妊娠した時、まだ長男には診断名がついておらず、臨月の頃“MECP2重複症候群”だと確定診断をうけました。Dr.に『お腹の子が男の子なら遺伝するかも…』と言われて産まれてきました。
母乳を嫌がり全く飲んでくれず、ミルクにしてやっと飲む感じでしたが乳吐きもひどく離乳食を早目に始めました。体重の増えはよく特に問題はありませんでした。
6ヶ月を過ぎても寝返りをせず、何となく気になり始め、居ても立っても居られず長男の時にお世話になっていたリハの先生に相談し診てもらい10ヶ月からPTを始めました。
そこからは、スローペースではありますがお座り、ハイハイ、つかまり立ち、一人立ち、伝い歩き、独歩と順調に獲得していきました。
3歳までは遺伝子検査を受けないでおこうと主人と話をしていたので確定診断を受けたのは3歳を過ぎた頃でした。こちらからお願いして検査を受けました。
6ヶ月頃に喘息を発症し何度か入院しています。
ここ2年ほどは出ておりませんが、念のため定期診察と気管支拡張剤の内服を続けています。
言葉は持たず、要求などは指差しや少しのサインで伝えます。言葉の理解はほとんど出来ています。
これからのSTで、自分からの要求を伝える手段をPECS、マカトンサインでやれたらと検討中です。
食事…何とか食べようという意思はあり道具を工夫すれば1人でも食べれますが、介助は常に必要です。
握るという行為はなかなか難しく不安定です。
排泄…完全にオムツです。
トイレに行く行為は好きなので時間で連れていきますがタイミングが合いません。
トイレでの成功体験は重ねていますが繋がりません。
快、不快が分からず濡れても平気です。
お風呂…湯船へは自分で入ったり出たりします。
身体を洗うのは大人がやります。
着替え…着脱出来ません。
ズボンは足首まで下ろせる、足首まで入れてあげれば上げれます。
てんかんについては、まだ発症しておりません。
4月から特別支援学校にスクールバスで通います。
表情も豊かで人懐っこく活動的です。
今後もこの笑顔を見ていきたいと思っています。
その為に、出来ることはやっていきたいと思っていますし、皆さんとの情報共有や活動を通して勉強していきたいと思っています。


現在4才の息子、上にお姉ちゃんがいる4人家族です。毎日療育園に親子で楽しく通っています。息子がMECP2重複症候群であると分かったのは、ちょうど2年前の12月でした。2才半の時でした。
息子は海外で生まれました。上の子が緊急帝王切開での出産だったので、予定帝王切開で産みました。海外とは言え、二人目ということもあり、健診でも順調だったので特に何も心配していませんでした。
でもお腹から出された瞬間、上の子の時のような大きな産声はなく、数秒経ってから恐竜の赤ちゃんのような、きゅ~きゅ~というか細い泣き声が聞こえました。一瞬心配になりましたが、お医者さんからも何も言われなかったので、無事生まれてきてくれたことにただ感謝しかありませんでした。
しかしその後、母乳を吸わない(吸えない)、ミルクを大量に吐く、体重が増えない、か弱い泣き声、など、一人目とは明らかに違う”何か”をずっと感じていました。
海外の小児科でも一時帰国中の日本の小児科でも「大丈夫」と言われ続けましたが、結局6カ月を過ぎた頃に、通常1才頃を目処に閉じるはずの大泉門が既に閉じている、脇の下に手を入れて抱っこして足をピョンピョンさせても足を踏ん張らないことから、小児脳神経外科とリハビリを紹介されました。
MRIやレントゲン検査の後、
・大脳皮質に問題がある
・ひどい胃逆流性食道炎になっている
と言われました。
ショックではあったものの、今まで周りからは「大丈夫、ゆっくりなだけ」と言われ続け、でも”何か違う”と一人で思い続けていた行き場のない気持ちがやっと落ち着いた気がしました。小児脳神経外科の先生に「MRIを見る限り、原因は分からないが単に成長がゆっくりなのとは違う」と言われ、それなら原因をハッキリさせて成長を促すリハビリなどを積極的に受けなければ!それならやっぱり日本で受けなくては!といてもたってもいられず、日本への本帰国を決めました。
縁あって東京の病院で色々な検査を受けられることになり何回目かの検査入院で
・歯が生えてこない
・髄鞘化が遅れている
・小脳が小さい(脳全体が小さめ)
・脳梁の低形成
・大脳白質形成遅滞
などが見られたために、主治医の先生から「POLR3A/POLR3B遺伝子の異常」を疑われ、エキソーム解析(遺伝子検査)をすすめられました。主治医の先生からは「もし遺伝子疾患が見つかったとしても、根本的な治療法はない。ただ原因が分かることにより将来的に何が起こりうるのか、事前にかかりやすい病気などが分かり予防策が取れる。」と説明があり、子供と父母の採血をし結果を待つことになりました。
と同時に、主治医の先生からリハビリの重要性を説明され、大阪の有名なリハビリ施設を紹介してもらい母子入院することになりました。母子入院後、東京に戻る予定でしたが、リハビリ環境を考え、大阪に住むことに決めました。
半年後、疑われていた遺伝子の異常ではないことが分かりました。先生から、遺伝子の数は膨大なため原因はこのまま分からないかもしれないと言われました。しかし、更に半年後、遺伝子の解析が進み、疑わしい疾患が見つかったために検査入院をしてほしいと連絡がありました。
そこで再度色々な検査をし、MECP2重複症候群であると確定診断をされました。
2才半での確定診断は早い方だと思います。これは全て当時お世話になっていた病院、そして主治医の先生のお陰だと本当に感謝しています。
確定診断され、MECP2重複症候群がどんな疾患なのか、将来どのようなことが起こるのか説明を受け、ショックを受けなかった言えば嘘になりますが、限られた中で出来る限りのことをしよう、出来る限りのことをしてあげようと、思いを新たにしました。主人も同じだったようで、診断されてから息子に対する態度が変わったように思います。
4才の息子は、やっとつかまり立ちが出来るようになりました。
発作が始まってしまったら今まで出来たことも出来なくなってしまう…という不安が、何か出来るようになる度に、ピョンピョン移動する息子を見る度に、頭をよぎります。新しく何かが出来るようになった時に、何も考えず、出来たことを素直に喜べたらいいのに、と思いますが、やっぱり上の子の時のようにはいきません。
でも、人間の成長とは本当にすごいものなんだと息子を通してお姉ちゃんのすごさも分かるようになりました(笑)
毎日元気に学校へ行けること、療育園に通えることの大切さを日々実感します。
そして何より息子が運んできてくれた縁。療育園のお母さんたち、先生、病院の先生たち、海外の患者家族、そして日本の家族会のメンバー。その他にもとても素晴らしい縁に恵まれました。
MECP2重複症候群は、決して楽観視出来るような疾患ではありません。でも、今はそんな過酷な疾患が息子の、私たち家族の武器になりました。
普通なら忘れ去られてしまうようなことでも、MECP2という武器があることで記憶にも留めてもらえ、縁も繋がります。
家族会も発足し、同じ悩みを共有することも出来るようになりました。日々不安がなくなることはないけれど、今は前に進むしかないと思っています。
がんばろーーーっ、おぉ!!

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1年後・・
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発作はまだ発症していません。感染症には弱いですが、漢方を飲み始めてからだいぶ体調が安定してきました。
<PT>1歳になる前からリハを始めましたが、まだ歩いていません。どうにか座った状態から高いところにつかまって立ち上がることが出来るようになりした。好きなものがあれば、ずっと立っていますが、基本すぐ座ってしまいます。横への移動も難しいです。支えがないところではまだ立てません。
体幹周辺がしっかりしておらず、常にグラグラしている感じです。家での移動は主にバニーホッピング。療育園ではUFOウォーカーという歩行器にのって自由自在に移動しています。めちゃ速いです。
膝とお尻が伸びにくい、股関節が硬い、内腿の力が弱い、などPT的に沢山の課題があります。が、ゆっくりではあるものの、最初全く動かなかったことを思えば、だいぶ自分で動けるようになっていると思います。
<OT>小さいものをつまんだり、物を持ち替えたり、比較的手の操作は上手です。でも、そこに一つ道具を介すと一気に不安定になります。例えば、太鼓のばち。持つことはできますが、持って太鼓をたたくことは出来ません。手のひらで上手に太鼓をたたけるのに、ばちを持った瞬間、たたく位置も横にずれたり、音も出せなくなってしまいます。
ただ、食べることは好きなので、食べることに限っていえば、OTの先生に作ってもらったピストル型のスプーンを使えば、自分で食べたいものをすくって上手に食べます。フォークで何かを刺すことは難しいようで、フォークでもすくおうとします。
全体的に道具を持つ時は、がっちり掴む、持つというよりは、ふんわり持つような感じなので、安定感がありません。でも、肘を安定させてあげると操作性が上がります。
<ST>意味のある言葉はまだ話しません。ママパパという時もありますが、ただ単に発音しているだけの時も多いです。大好きなお友達の名前がいきなり言えたり、単発で単語を言ったりすることはありますが、だいたい単発で終わり、それが言葉に繋がったりは今のところありません。
ただ、言葉の理解力はあるようで、こちら側が言っていることはだいたい理解しています。行動に移すまでに時間がかかりますが、お願いしたことは出来る範囲でやろうとします。
理解はしているものの、それを伝える術がかなり限られています。今は療育園で教えてもらったマカトンサインのいくつかを我が家用にアレンジして使っています。一つのサインにいくつもの意味があるので、読み解くのも一苦労です。でも、以前に比べたらだいぶ分かりやすく伝えてくれるようになりました。
UFOウォーカーを一昨年末から乗り始めて、動くことがとても楽しくなったようで、一気に子供の様子が変わりました。探求心が出てきたように思います。自分でもUFOに乗れば好きなところに行けると分かっているようで、UFOに乗っている時はイキイキしています。
もっとコミュニケーションをスムーズにしたり、子供からの発信を見逃さないようにするために、コミュニケーションツールとして、スイッチがよいのか、eye-trackerが良いのか、カードがよいのか、色々試行錯誤中です。